古賀 穀堂 こが こくどう
   

蒲團竹几通宵坐
掃地焚香白晝眠
蒲団(ふとん)竹几(=竹で作られた筒状の抱き枕) 通宵(=一晩中)坐し
掃地(=掃除)焚香(=香を焚き)  白晝(=日中)眠むる        題邗江化城寺(C 康熙帝)
「掃地焚香白晝眠」は他に「掃地焚香向昼眠(昼眠に向かう)」ともある。
27.7p×122.2p

安永6年12月5日(1778年1月3日)生〜天保7年9月16日(1836年10月25日)歿
 江戸時代後期の朱子学者・佐賀藩年寄。古賀精里の長男。諱はZ、字は溥卿、号は穀堂、別号を清風堂・琴鶴堂などと称する。幼名は文太郎、通称は敬一・太郎右衛門・一左衛門・修理・藤馬・文太郎。
 佐賀の精小路の邸宅に生まれる。父が昌平黌の学官に任じられると、その後を追いかけて寛政9年(1797)に江戸に出て父の下で学び、柴野栗山・尾藤二洲からも教えを受けた。7年ほど江戸に滞在したのちに佐賀に帰藩して、文化3年(1806)藩校弘道館の教授に任ぜられ、また藩政に参じて年寄相談役なども務め、藩侯の信任が厚かった。
 父と異なって朱子学以外の人士とも積極的に交流し、父が「偽学者」として糾弾した陽明学者の頼山陽や徂徠学派の亀井昭陽とも親しく交際し、特に山陽の文才を高く評価している。更に蘭学導入の必要性を早くから唱え、鍋島直正が西洋技術を佐賀藩に積極的に導入する素養を育んだ人物でもあった。
 たびたび江戸に住んだが、天保6年(1835)冬に病を得、翌年帰郷して没した。
 著書に『琴鶴堂詩鈔』『穀堂遺稿抄』『穀堂文集』ほかがある。

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